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橋本努の音楽エッセイ 第21[最終回]

「「無のものたち」! マルチチュードの夜明けを讃えよ」

雑誌Actio  20113月号、22

 


 

 北の世界では、雪とともに無音状態が訪れる。路地を車が通るとして、そんなノイズさえも、雪壁のなかに吸収されてしまう。はたしていま、そこに人が歩いているのだろうか。車が走っているのだろうか。日常生活の感覚が麻痺してしまう。音が生まれては、瞬時に瓦解していく。あちこちにできた防音壁の雪ダマリに吸いこまれていく。音たちは、二度と出て来ない。すると「無のもの」たちが、ひそかに動き出す。そんな路地裏のリリシズムから、人知れない無数の世界が生み出される。深い内面の領域が育まれていく。

 この静謐な感覚。はたして、どこまで伝わるだろうか。実は、この北の感覚を芸術的に表現した、きわめて作品性の高いCDがある。Ametsub(雨粒?)のセカンド・アルバム、The Nothings of the NorthProgressive Form XECD-1110)である。タイトルを訳すと、「北の無のものたち」となるだろう。坂本龍一が2009年のベストに選んで、「僕、ファンになりました」というコメントを残したことでも、話題となった。エレクトリックな音の組み合わせによって構成されたテクノ作品であるが、これまでのテクノの歴史を塗り替えるほどの芸術性をそなえている。

 お世辞ではない。一曲目の「ソリチュード(孤独)」を聴いて、私はそこに、マルチチュードの大いなる夜明けを感じた。可能性にみなぎる疾走感がある。けれども音たちは、どこか不安気で、憂鬱で、あたかも、か細い吐息だけが、美的なリズムを刻んでいる。だがそれでもって、はじめて前へと歩きだすことができる。そんな危なげな歩みに、あらゆる潜在能力の予兆を認めるのは、やはり若い感受性の特権というべきであろうか。

 むろん、本作品の原点は、従来のテクノ音楽を継承するもので、エレクトロニクスを駆使して音を構成していく喜びにあふれている。だがそれが他の凡庸な作品と隔絶しているのは、都会の中にあって、殺伐とした孤鈍感にさいなまれるアーティストたちの意識を、まるで知り尽くしているような感性にこそあるだろう。それはどこまでも透明に昇華されている。自己の孤独感を直視することから、新しい芸術が生まれている。

 9曲目のFaint Dazziling(かすかな眩暈)を聴くと、内面の深さは、ある種の「あきらめ」とともにあることが分かる。これに対して11曲目の「66」では、大勢の鳥たちが、いっせいに、ざわめきはじめる。この騒がしい事態に、私は鳥たちとともに、あてどない混沌とした運動のなかへ入り込んでいくべきなのか。むしろじっとしているべきなのか。そこには、取り残されるのではないかとの焦燥感が表現される。

 おそらく、新しい芸術を打ち立てる創造作業は、気の滅入るほどのジレンマを抱えているのであろう。周囲と群れて、新しいトレンドを追って、もがいてジタバタする自分がいる。ざわめきのなかの部分にすぎない自分に気づかされる。そんな自画像から、本作品は悲しいリリシズムを生み出したのではないか。その果実に、私は思い切りの涙を捧げたい。むろん、マルチチュードは、それでも先に進んでいく勇気をもっているだろう。あらゆる潜在能力を、開花させずに踏破する。そんな企てを後押しする音楽だ。